恐怖管理理論

コミュニケーション論1の最終課題に関連する内容で話題に出したのだが、「恐怖管理理論」という概念があるらしい。たまたま見つけた日本語で書かれた論文が(断片的に、だが)面白かった。
UTokyo Repository - 東京大学学術機関リポジトリから落とせる。

課題内容に絡んで"hero-system"という概念が出てくるのだが、「site:ac.jp "hero-system"」なんかでググっても教員本人のウェブサイトしか引っかからないものだから、ついつい「これは教員自身の造語じゃないのか」と思い込みかけていたけど、ちゃんとGoogle Scholarとかで検索すると英語で書かれた論文がいくつも出てくる。

その他、少し分かったこととかをメモにして残しておきたいものの、眠いしダルいので今度にする。どのみち入り口は示したので調べさえすれば自ずと分かる情報ばかり。


#何が言いたいのかサッパリ分からない文章になったので、やっぱり書く。

そもそも"hero-system"という概念が提起される契機となったのは、アーネスト ベッカーという人物が記した『死の拒絶(邦題。原著のタイトルは"The Denial of Death")』で、そこから死というものが誰しも等しく訪れることを頭脳の発達と共に意識できるようになった(=認識せざるを得なくなった)人間が、その不変の事実と向き合いながらも上手く理性を保ったり一定の活動を行なっていくことを実現する概念として研究されはじめたのが"hero-system"。
定義こそ非常に大雑把だが、そのhero-systemに類する形で?転じて?死の恐怖を管理するという概念が出現し、それを「死の恐怖管理理論」と言う。とかそんな話のはず。哲学の話とも絡めてあって、もっと深くアプローチできれば面白いのだろうなあと思う。

もっとも、平素「それが強いられているから」を言い訳に行なっている「断片的な情報収集・運用を常としたレポートを書く」のは学問的にはおそらくナンセンスでしかなくて、それをきっかけにして興味を持ったり何か調べたり、分かる人に聞いたりするのが学問の醍醐味ではないかなと思う。
こんなの考えて何の意味があるんだろうか?と思うような、というと語弊があるが、実利に直結しないような研究がなされているように映り、かつそれが教養として押しつけられるシステムが現に存在するのは、まさしくそのあたりの事情なのではないかなとぼんやり考えるわけで。
あれこれ考えていると、授業に何回出たから/何回しか休んでないから、レポートは最低限出したから、90分の授業を毎回大人しく座って聞いていたから、ということを口実に「俺はちゃんとやってるんだぜ」となるのはおかしいようにも思って、でもそういうことを当該の人間に言っても前向きな結果を生むことは概して無いわけであって、それが分かっているなら言わなきゃいいじゃんという話になる。
だから面と向かっては口にしないんだけど、何だかなあ…という気持ちが(前期の自分から得るところの反省も関与することで)生じ、おせっかいを口にしてしまうことが多い。

うだうだ書いてしまったので適当なところで切るけど、一方でそうやって辛辣な発言を口にすることは、主に自堕落さに充ち満ちた他者にとってはこの上なく苦痛なことらしく「何もしてないのに傷つけられる」と言わんばかりのことを私の感知し得ないはずのところでなさられているご様子なので、やっぱり言わない方がいいんだろうなってのが今のところの結論。大体、それに著しく該当する他者とは関わり合いを絶っているのだが。本質的に無益だから。


という、それこそ無益でしかない結論を導き出すのに時間を投じている気がする今日この頃。